「石田三成」という武将が
冷血とか、人望がないとか戦下手といわれながらも
なぜ西軍の立役者になったのかについて
紹介していましたので改めてメモしました。
昨今では、TVゲームなどでの人気に加えて
(キャラクターのルックスや「中の人」の影響ということもあるのでしょうが)
「関ヶ原」や「のぼうの城」という小説では
(戦下手でも)誠実な人物という位置づけのようです。
実際、数年前~現在、どことなく低評価の方が多い感じだった三成公です。
が、
今年の大河ドラマ「真田丸」だと「天地人」同様、
“豊臣側”が主役なため、
N◎Kも三成評を上げてきたということでしょうか。
(来年の大河は「井伊直虎⇒“徳川側”」だからまた評価変わるのかしらん??)
とにかく、家康と三成に限りませんが、小説などでは
作品や世相によって人物評が見事に変わるのが面白い。と個人的には思います。
比例して、どれが本当の「人物像」かが分からなくなったりしますけどね。
・組織第一という考え方
・加藤清正らとの対立
・この構図を現代に当てはめるとこうなる。
・家康台頭~三成挙兵
・リーダーの条件のひとつ:ブレない姿勢・シンプルな主張
・「大馬鹿者だけを求めている」:塙氏のプレゼン力
・おまけ:石田三成の顔が復元された
という観点で紹介していきたいと思います。
・組織第一という考え方
東軍<西軍であり、
後年にその布陣図を見たドイツ人の戦略家が
「西軍が勝ったのでは?」とコメントしたそうですね。
(「クレメンス・メッケル」が言った。という説もありますが、これは司馬遼太郎さんの創作という説も有ります。
⇒かくいう私、信じてましたよ…実際は誰方なんでしょう?)
そもそも、
三成は後方支援が得意なひとでした。
天正15年(1987年)の九州征伐でも
25万の兵力と2万の馬を送り届け、兵站を確保すると言う
手柄を大きく評価され、
天皇行幸の際は先頭を歩く栄誉を与えられるほどです。
そうして三成自身も秀吉への忠義が厚く、
組織第一という考えを持っていたようですが
一方、清正たちは彼に反発精神を高めていました。
・加藤清正らとの対立
後年、秀吉が海外への進出し、
(多分「文禄・慶長の役」;朝鮮への出兵のことだと思いますが、
NHKでは国名を伏せています)
豊臣幕府瓦解の要因のひとつだと
御存知の方もおられると思います。
そもそも、
“海外”侵攻の際に、日本軍が苦労していたこともたしかですが、
そんな中でも加藤清正や福島正則らの武将が
苦労しながらも戦功を立ち上げていたのも確かです。
とはいえ、三成に限らず、
この戦争が無益なものだとわかっているひともいて、
この戦争を一刻も早く終わらせたいと思っていたことも事実のようです。
その際に、それにも関わらずに功を上げていく清正を指して
「清正が勝手なことをしている」と三成が秀吉に報告し、
秀吉が激怒、蟄居を命じます。
それを聞いて清正が激怒したうえ、三成に対し恨みを持つようになります。
(これって「清正と小西行長との功争い」のことかと思ったのですが、他のこともあるのでしょうか?
ちなみに行長は名前が出ていませんでした。行長ファンの方、御愁傷様です)
秀吉の死によってこの対立は激化してしまいます。
・この構図を現代に当てはめるとこうなる
三成VS清正・正則
(吏僚派?(文治派)VS武断派)
という対立は、
現在の一般起業で言うと
総務部VS現場(の、責任者同士の対立)
ということになりますよね。
…こんなん上でやられたら、
下の人間は迷惑きわまりな…いえ、なんでもありません。
塙昭彦さんという方(元某コンビニチェーンの取締役)が
ゲストコメンテーターとして呼ばれていました。
営業から営業本部長としてさまざまな後進を育て
中国進出のときにも人活躍したとかいうひと、だそうです。
通常なら両方の責任者を読んだり、
現場などのデータを集めて分析する、
調整するのが理想だと、塙氏はコメントしていましたが、
そう上手くいかないのが当時の事情と秀吉の限界だったようです。
・家康台頭~三成挙兵
秀吉が死去すると家康が頭角を現してきます。
秀吉によって禁じられていた
政略結婚や無断で知行の分配などを
次々に行っていきます。
誰も異を唱えられない中、当然ながら三成は反発します。
そして、友人である大谷吉継や、忠臣島左近と共に挙兵します。
清廉潔白を貫いてきた三成の人柄が
毛利輝元や宇喜多秀家たちを味方にしていくことになるのです。
・リーダーの条件のひとつ:ブレない姿勢・シンプルな主張
リーダーの条件として清廉潔白ということも、
それを貫きつづけるのもひとつの条件のようです。
ブレない態度を貫く、その背中をみせるということで
段々「人間性」が認められてくる、ということのようです。
(リーダーは)
劣勢な時ほどその姿勢を見せ続けることが大切。
加えて、プレゼン能力もシンプルにするべきです。
滋賀県の成菩提院tには石田三成の人柄を表すものがあり、
農民たちへの13ケ条が書かれているのが載っていました。
そこで特筆すべきが、
・検知帳に記載されたの税は責任をもって納めること
・その年の収穫高を持って、農民と役人が話し合ってきめること
・問題が有れば直訴もかまわない
ということでした。
農民の権利もきちんと保護していて
役人との立場が対等というあたり名君ぶりがうかがえます。
これにより、領民たちも自発的に税を納めることになる?のだとか。
ところで「内府ちがひの条々」というものを御存知でしょうか。
家康への糾弾文を簡潔に述べたものです。
全13文からなるもので、自分たちの正当性を簡潔に述べた物です。
これが全国の大名たちを刺激し、109家の大名がこれによって集結しました。
・「大馬鹿者だけを求めている」:塙氏のプレゼン力
塙氏が中国の店舗を任された時、
日本人従業員の他、中国で現地ひとを募集したそうです。
その際、シンプルに
バカはいらない
大馬鹿者だけを求めている
と、言ったそうです。
大バカものとはこの場合、
ひたすら、がむしゃら、遮二無二という意味だそうです。
他にも、従業員には
「遠くの美人より近くのおばあちゃんを大事にしなさい」
という教育をしたのだそうです。
プレゼンひとつで人生も変われば業績も変わるという
エピソードを紹介しておられましたた。
・おまけ:石田三成の顔が復元された
関ヶ原で敗れた後、三成の首は
三条大橋下に晒された後、
大徳寺三玄院にて遺骸と共に供養されています。
享年41歳
身長約156センチ。
(当時としてはほぼ平均ですね)
才槌頭で出っ歯気味
虚弱体質だったとか。
鼻筋が通った優男タイプです。
明治40年に京都大学が発掘しました。
今は復元像が、「三成の次男の子孫」の
お宅に在るそうです。
思ったこと)
こうしてみると、よくもわるくも石田三成というひとは
個人的に、真面目+勿体ない感のある武将でしたが、
清廉潔白というのは得なのか損なのかという疑問はさておき、
戦下手だの冷血漢だのという今までの評価の他にも
近年再評価されてきたというのは良い兆候だと思います。これを機に他の偉人たちも再評価されるとよいですよね。
江戸時代~は色々とネガキャンされてきたそうですが、
「三玄寺」という三成由来の寺で供養が許されていたり、
今もそのお寺が在ったり、
三成の子息たちがそれぞれ存続を許されていたり、
遺臣の再士官口もいろいろあったらしい、という
注目すべきところもあると思うのですよ。
家康が三成らの遺骸とその子孫たちへとった態度には
当時の世論やパフォーマンス的なものを考慮しているとは思いますが。
(徳川光圀は「忠臣」と評価していますし。)
ちなみに、今回は、三成の元に集った武将たち109人、
【でも内情はボロボロだった】
という現状は今回は触れていませんでした。
毛利や島津、長宗我部たちを説得したあたりもさらっと流されていました。
そのあたりが個人的に気になったところです。
余談その2)
余談ですが、今年の正月ごろに司馬遼太郎の「関ヶ原」が
ドラマ化した番組が再放送していましたよ。
その時の出演者:
家康;森繁久彌
三成;加藤剛
正信;三國連太郎
初芽局;松坂慶子
当然ながらCG無し。合戦場面も凄い数の人でした。
残念ながら最終話しか視れなかったことと、
なぜか黒田官兵衛がいなかったので、「関ヶ原」の最後の場面が
「初芽と官兵衛の会話⇒初芽と正信の会話」になっていましたが、
加藤剛の「三成が再起をかけて落ち延びるシーン」は圧巻でした。
あと、あの番組を視て「家康・正信、渋い!カッコイイ!」と思った方は
原作本を読まない方が良いかと思われました。いえ本当に…
あと、あの番組を視て「家康・正信、渋い!カッコイイ!」と思った方は
原作本を読まない方が良いかと思われました。いえ本当に…