暫く週1での更新になってしまいそうです。
逆に、
週に1日は必ず更新することを目標に書いていきたいと思いますので、
遅筆で恐縮ですがこれからも御贔屓いただければ幸いです。
さてさて
6月28日の「知恵泉」という番組で
出世の極意というテーマで毛利元就の特集をやっていました。
「毛利元就」といえば、
ついつい
某光◎の、矢で敵を倒す
“銀◎英◎伝説の提督そっくり”な元就公や、
某カプ◎ンの、
“通称オクラ”な元就公を髣髴としてしまう
ゲーマーな私ですが、
(パワプロのカードでミット?グラブ?
持ってる「元就さんカード」見た時はつい2度見しておりました…)
今回は、弱小国の国人だった元就・毛利家が
どのように中国覇者になっていったのか、
その偉人伝が
「出世の極意」というテーマで紹介されていました。
・「作戦」は多いほど良い
・状況をよくみて行動する
・ひとを立てる
・パートナー(伴侶)も大切に
・横並びから一歩抜け出す努力を
・「作戦」は多いほど良い
元就が家督を継いだのは
(当時2歳だった甥の後見人になった)
永正14年(1517年)でした。
家督をついでまもなく
安芸武田氏が5000の兵力で攻めてきました。
これに対し、元就は1000で対抗しなくてはいけませんでした。
しかも、元就はこれが初陣でした。
彼のとった行動は、大将への集中砲火(砲火?)でした。
これが、見事に大将に命中し、
武田氏に勝利した形になりました。
元就は、これによって家臣たちの信頼を得ました。
「謀多きは勝ち、少なしは負け候」
という言葉があるそうです。
正面から当たっていくことが必ずしも
美徳では無いということでしょうか。
毛利元就に限らないでしょうが、
彼の野心?願い?は家を大きくする事であり、
必要があれば自分がつくべき大名も、
都度変えています。(「尼子→大内」のように)
自分や家の繁栄のために、主君を変えるのは
真田昌幸や藤堂高虎だけじゃなく、当時は
結構ポピュラーなことだったということですね。
余談ですが、
大永1523年、甥(兄の子;幸松丸)が病死したため、
元就が27歳の時、家督を継ぎました。
・状況をよくみて行動する
「小心者であれ」
→時機を見定め、無理をしない。
ということが鉄則のようです。
たとえ面目を潰され、煮え湯を呑まされても
今は状況ではないと思ったら、
冷静に時機を見、待つことが必要のようです。
元就に当てはめると、当時、派閥元である尼子氏に
自分の面目を潰されたり、命を狙われて危うくなっても、
当時の力関係を鑑みて判断することで、尼子傘下に残留。
尼子配下として隣国の大内氏と戦い、局地戦では勝利するなどの
戦上手ぶりを発揮していました。
後、大内氏が尼子氏に勝利し、毛利家周囲の勢力(国人衆)が
大内側に傾いた時、改めて元就は大内に手紙を書き、
大内氏側も喜んで傘下に迎えた、ということです。
尼子氏に反感を持ってから2年めのことでした。
(ついでに、当時尼子派だった近隣勢力「高橋氏」を滅ぼして
領地を拡げることも成功しています)
・ひとを立てる
「ひと」を大切にすること、といいますか。
元就が勢力を拡大していった理由のひとつに、
部下や周りのひとたちを大切にすることでした。
ちなみに、毛利家の「正月休み」は10日もあり、
これによって、元就は「下の位の家臣」たちとも
祝いの席を設け、信頼関係を築いていったようです。
また、周りの国の領主たちと姻戚関係や
(宍戸家に娘を嫁がせる、吉川家や小早川家に息子を養子を出すなど)
話し合いなどで派閥を作り、勢力を広げていきました。
ですが、その時も奢ることなく謙虚な姿勢を貫き、
安芸の国内で掟の取り決めや話し合いなどが有った時には
傘連判を使う事で領主間の上下関係を誇示しないなどの
気配りを忘れていませんでした。
後年、陶家と抗争、勢力を広げるに当たり、
占拠先の領民たちの反感を買わないよう、
自軍の兵たちには乱暴を禁じ、
例え自分の部下ではなくても違反している兵がいれば
罰を与えても良いという命令を出しました。
これにより領民たちも毛利に心従したといいます。
ちなみに、その後毛利元就は
弘治3年(1557年)に大内氏を滅ぼして、
大内氏の領地をを手に入れました。
投降した兵たちも優遇し、
永禄9年(1566年)尼子氏を降伏させ、
統治下に治めました。
これで中国地方が毛利家の勢力下に治まりました。
・パートナー(伴侶)も大切に
元就の特徴として、
女性を大切にしていたという点もあるようです。
最後に元就の人生を縁の下で支えたひととして、
3人の女性が紹介されていました。
ひとりは、養母(継母)である「お杉の方」でした。
父親を亡くした元就を引き取り、再婚することなく
育てあげた、元就たちが終生敬愛していたひとだったそうです。
また、毛利元就は(当時にしては珍しく?)
正妻存命時は側室がいませんでした。
しかもこの妙玖(俗名不明)という女性は、
妻という立場に安穏としているわけではなく、
元就の手が及ばないところ、
例えば人間関係を築くためのフォローなど
豊富な人脈と外交的手腕を使って、毛利家の勢力拡大の上で
その才を揮ったそうです。
ちなみに、妙玖夫人は47歳で亡くなっています。
(元就:当時49歳)
長年寄り添っていた夫人を亡くした時の
焦燥ぶりはかなりのものだったそうです。
「今はひとりになってしまいました」
「妙玖のことが恋しくてなりません」と
毛利元就の書状に残されていることからしても、
夫婦仲の良さがうかがい知れます。
(でも「御落胤(?)」は居たりする。毛利輝元配下の有能な家臣)
見かねた家臣たちの薦めもあってか、
後年後妻「中の丸」を娶るのですが、そのひとも前妻同様、
毛利家の中政を取り仕切ったそうです。
ちなみに、毛利輝元の元服もこの中の丸が取り仕切り、
元就の死後も毛利家での発言権を持っていたようです。
そういえば、
戦国時代の大名で奥さんが一人しかいないのって
(後妻さんを除く)あとは伊達輝宗と明智光秀、
直江兼続と、山内一豊と黒田官兵衛…ぐらい
思いつきません。あと、今川氏真??
立花宗茂は…側室迎えたのが別居後(?)だから
これも範疇?
他にも御存知の方、教えて頂ければ嬉しいです。
・横並びから一歩抜け出す努力を
「ピンチには必ずチャンスがついてくる」
どんなことも、前向きに思うべきだと
ピンチをチャンスに変換・転化することが大切。
今の不況でさえも、チャンスに変換するように思うことが
大切だと、今回のゲストである
ジュンク堂書店代表取締役の工藤泰孝さんが語っておられました。
チャンスを見落としてしまうこともあり、
長く時機をまちすぎて通り過ぎてしまうこともあれば、
早く掴もうとして失敗するケースもあるから
努力は必要だそうです。
最後に)
情報収拾や時機の見極め、って難しいですよね。
最後のところではありませんが、やはり
チャンスを見落とさないように気を着けても
「時機を伺いすぎて通り過ぎる」ことや
「飛びつくのが早すぎて失敗する」ということもあります。
それについて努力が必要だ。とだけ、今回の番組ゲストの
工藤社長は言っておられましたが、
もう少しヒントがほしい気もしました…。
まぁ、その「見極め」が難しいから皆苦労しているのでしょうが。
感覚的なものもあるんでしょうかね?となると、文字通り
説明しにくいということになるのかもしれません…。
毛利元就の場合は「2年」でチャンスが来ましたが、
これはラッキーなことだったのではないかとも思います。
尼子対大内戦で、もし尼子が勝っていたら、潜伏期間が
2年どころか5年、10年続いていたかもしれませんし、
高橋氏を攻めて領土拡大できたかどうかが未定だったということですものね。
それとも元就なら、あそこで尼子氏が勝っていたとしても
何らかの手段でいずれは毛利家進出を叶えていたのでしょうか?
加えて、夫人の内助の功も貢献したということが有ったのでしょう。
この妙玖尼だけではないとはおもいますが、
やはり、御近所・御親戚付き合いの見本みたいな
ひとが人間関係をフォローすることで建前・本音で使い分ける
必要のある人づきあいを強固なものにしたということでしょうか。
やはり、味方ほどではなくても、
敵は作らないにこしたことはないということでしょうか?
人との縁も大切にすることも必要だということは、
毎回言われていますが、
敵を作らないように相手を立てるということが
どれだけ重要かということもよく耳にします。
他にも、愛妻家という噂がありましたが、そういえば、
古今東西の「成功者」や「金持ち」と言われるひとたちの
ほとんどが、夫婦仲が良いという話を読んだことが有ります。
慰謝料他を払わなくて良いから…というのもともかくですが、
(こういう笑いにくい軽口や冗談もあったりしますが)
何よりも家庭環境などのプライベートが充実することが
仕事に対するモチベーションなどを上げることに繋がるのかも
しれませんね。
人見知りの気がある方、内交的の気がある方、
自分コミュ力向上計画、一緒にがんばりませう…。